【やる理由2】人生がうまくいかない思考のできあがり。


シンプルパフォーマンス
プロデューサー三ツ間です。

 
私の実の母は
私が小学校1年生の時、
母親は34歳で亡くなりました。

 
癌の宣告を受けてから
手術をすることもなく
あっという間に
亡くなったということは、
 
 
癌の発覚後、
手の施しようもない位
末期の癌だったそうです。

 
入院してから
3ヶ月ほどで亡くなり
治って自宅に帰ってくると
思っていた私にとって、

 
最初は何が何だか
理解できませんでした。
 
 
父や母方側の両親、
(私にとってのおじいちゃん、
おばあちゃん)
は病院で怒り狂い、
その罵声や悲しみ狂う姿を
見ていた
私と兄は、フリーズ状態。

 
人って恐怖感が強く出ると
動けなくなるという体験を
この時、初めて体験しました。
 
 
私の感情は整理が
付かないまま、
退院、葬儀の準備や
お墓の問題などの話が
どんどん進み、

 
今まで当たり前のように
一緒に日常を過ごしていた
母親は
灰となりお墓の中へ。

 
出来事だけが進み
私の感情は置いてきぼりに
なっていった感覚を
今でも覚えています。

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悲しさ、淋しさを
手放しきれていない状態から
さらに本当の辛い出来事は
その先にありました。

 
母親の死から
家事や育児に関わっていなかった
父親が悲鳴をあげる毎日となり、
 
 
料理は毎日、
野菜やお肉を入れるだけの鍋料理。
 
 
今の時代ほど、
便利な”鍋の素”のような
ものはなかったので、
味付けは今まで食したことが
ない味で、

全く食が進まなかかったのを
今でも覚えています。
 
 
子供の運動会や遠足などでは
お弁当を作ったことがない
父だったので、

私の家庭環境を理解してくれていた
学校の担任の先生が
毎回作ってくれていました。

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父親なりに
私の好きなハンバーグなども
作るのですが、
全然美味しそうに食べない。
 
家事と育児と仕事を
両立する毎日に、
父のストレスもMAXへ・・・。

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だんだんとお酒の量が増えて
 
うまくいかないことの苛立ちが
言葉にも出るようになり、
子供ながらに父を見ても、

『お父さんなんか
ヤバそう・・・』
 
と思う毎日が続きました。
 
 
夜遅くまでシゴトをする父は
料理を手放し、
会社で毎日出る
お昼のお弁当を余分に頼み、

それを持ち帰って
私と兄に食べさせる毎日。

 
父の負担は無くなりましたが
冷たい食事を食べる毎日に
私の心もそれに伴い
どんどん冷めていき、

 
心の痛みと日々の辛さ、
母親に会いたい淋しさを
毎日疲れて帰る
父親には甘えられず、

 
母親が生きていた生前の頃の
元気な私はどんどん
薄れていったのは
この頃からでした。
 
 
この状態が続き、
小学校4年生だった兄は
父にこんな提案をします。

 
『お父さん、
新しいお母さんを作ったら』
 
 
と。
 
この言葉が父に火が付き、
 
 
子供の母親を作る為に
結婚相談所へ行き、

 
条件が合う
女性と会う機会が
増えていきました。
 
 
その都度、
私と兄はいつもよりも少し
綺麗目な服を着せられ、
父が出会った女性と
一緒に食事をしたり
週末が
続きました。

 
何人の女性と会ったかは
はっきり覚えていませんが
3名以上、知らない女性と
話をしたと思います。
 
 
『ゆきえちゃん、
こんにちは。はじめまして。』
 
 
と知らない女性から
言われる度に
嬉しい気持ちと、

 
何となく、
自分が受け入れられていない
感じの雰囲気もあって、
 
 
父と兄の後ろに隠れたり、
中々溶け込むことは
できませんでした。

 
父親のパートナー探しは
ある人をきっかけに終わり、
 
 
その後、
私が小学校3年生の時に再婚をし、
この継母がきっかけに
 
 
私にとっての
本当のどん底が始まりました。