【やる理由3】『母親は優しい』という思い込みがさらに心を辛くしました。


シンプルパフォーマンス
プロデューサー三ツ間です。

 
 
昨日のメルマガでは
私の本当のどん底の始まりになった
きっかけをお伝えしました。
 
 
父が再婚した母親は
製薬会社に勤める薬剤師で、
本社で内勤を勤めるOLでした。
 

小学校3年生で人生初の、
 
“親の結婚式を見る”
 
という体験をし、
私は継母にお花を手渡す係になり
新しいお母さんができたことに
喜びや、未来に対して
 
 
・優しくしてくれる
 お母さんができた!
 
・甘えさせてくれる
 お母さんができた!
 
・お弁当を作ってくれる
 お母さんができた!
 
 
という希望を持ち
ワクワクしていたのを
今でも覚えています。

AdobeStock_100085316.jpeg

 
7歳まで過ごした
亡くなった母が与えてくれた
 
“優しい母親像”
 
を持ったまま
新しい母を迎えてしまった私は、

 
ここからが本当に辛い
どん底の日々が
続いてしまったのです。

 
今だからこそ、
このように

“母親は優しくて当たり前”

という思い込みを持っていたから
辛かったんだ。

 
と客観的に自分の過去を
見ることができますが、

 
当時はまだ小学校3年生の子供。
 
 
お母さんは優しくて当然。

お母さんは自分の見方。

お母さんは子供を
愛してくれて当然。

 
と、亡くなった母と同じような
扱いをしてくれるのが
当たり前だと思っていたのです。
 
 
一緒に住みはじめ、
最初の頃は優しくしてくれていた
継母でしたが、

 
子供を産んだことがない継母は
自分なりに

“良いお母さんになろう!”
 
とがんばり過ぎていたのか?
無理をしていたのか?
 
わかりませんが
 
共働きで、
シゴト、育児、家事を
全て一人でやる生活に
一変してしまった継母の
ストレスが数ヶ月でMAXになり、
 
 
感情を父、兄、私に
ぶつけてくるような
生活へと段々となっていきました。

AdobeStock_163426237.jpeg

 
 
食事を作っている時、
片付けの時には
 
 
『私はあなた達の
お手伝いさんではないから!』
 
 
『座っていれば食事が
何でも出てくると思わないで!』
 
 
などと
心無い言葉を発する
食事時間となっていき、
 
いつの間にか暖かい
家族の団欒である食事の時間が
 
母親の家族に対しての
地獄のような
“愚痴を言う時間”へと
変わっていってしまったのです。
 
 
食べ盛りな小学校の私は
 
『早く食べてこの場から
去ろう・・・』
 
 
と思うような
食事の時間へと
変わっていったのです。
 
 
この頃からの私は
家族との会話は
無くなっていきました。